横浜中華街は日本で最大規模の中華街です。
面積は約500メートル四方あり、中華料理・雑貨・お土産屋などを含め、600を超える店が所狭しと立ち並んでいます。
1858年(安政5年)に日米修好通商条約が締結されたことにより、翌年の安政6年には横浜港が開港されました。
それによって、多くの西洋人が横浜港に流入し、彼らは仕事で雇っている中国人を連れてきたために、中華街が形成された始め、10年後の1868年には、横浜で暮らす中国人は1,000人にも登ったと言われています。
このコラムでは横浜中華街の地図を複数掲載しまので、散策する際にご利用頂ければと思います。
横浜中華街地図(マップ)
❐横浜中華街店名詳細マップ
横浜中華街の歴史
地図とは関係ないですが、横浜中華街の歴史について、ご紹介致します。
冒頭で少し触れたように1958年(安政5年)に日米修好通商条約が締結されて、それにより横浜港が開港されました。
幕末の時代に於いて、西洋人との通商(貿易)はもう避けられない状態になっており、日米修好通商条約は時代の流れに飲み込まれていくそのきっかけになる出来事でした。
これをきっかけに、今までは表立って通商することが出なかったものが、堂々と海外との取引ができるようになり、今の中華街のあたりには、世界各地
から大勢の人々が訪れ、西洋人が流入してきたのですが、彼らは仕事で雇っている中国人を連れてきたのです。
この様な流れの中、日本人は西洋の言葉が話すことができず、西洋人に関する知識も皆無だったので、ビジネスを円滑にまとめることが出来ませんでした。
そこに、中国人の役割が生まれたのです。
中国人は香港、広東、上海で西洋人の元で仕事をしており、彼らの言葉、商習慣、やり方を知っていたため、
西洋人と日本人との仲介役を果たすようになり、西洋人とは言葉で、日本人とは筆談で意思の疎通を図り、
日本の輸出入に必要な機能を果たしたため、横浜港は貿易の港として活況を見せ始めました。
この様な流れの中で、中国人は横浜港の貿易になくてはならない存在になり、日本の地でその活動基盤を見つけ、その人口も増えていました。
そして、居留地の中にある旧横浜新田を造成して、徐々にその地域に住むようになり、中華街を形成していったのです。
1899年(明治32年)に、居留地撤廃が決まります。
大量の中国人が入ってくると、日本人の仕事がなくなることを恐れる声が上がりました。
それと平行して、中国人がいなくても日本人が西洋人とのコミュニケーションを直接出来るようになって来たために
貿易における中国人の必要性はなくなっていました。
そこで生まれたのが、中国人に対する職業規制です。
中国人は、料理業、理髪、洋裁などの職業以外はしてはならないという規制が設けられました。
それによって、中国人は料理店を営む人が増えていき、中華料理店が増えていきます。
この様な事情によって、横浜中華街には、中華料理店が立ち並ぶようになったのです。