乳がんの治療を開始してから、5年の月日が流れマンモグラフィーの検査は後日医師から説明を受ける。
超音波の検査は異常はなさそう。
5年という年月は長かったような短かったようで、やはりあっという間だったという。
ガンだと分かって時のおどろきが、まるで昨日のことのように思い出される。
ガンと分かったきっかけ
7年前に右半身がしびれる症状が出て、慌てて病院へいくと、軽い脳梗塞だと診断される。
健康には自信がありとくに生活習慣病もなかったので、とても以外だった。
今までは健康管理に気を使うことはなかったが、そこからもっと健康に気を使えという神様の思し召しだと思い、健康管理に気を使うようになった。
そんな中で受けた人間ドックで乳がんだと判明。
左右同時に乳がんができていた。
早期発見がこの軽い脳梗塞のお陰でできたのは幸だと語る。
当時は、「胸の大きい人の方が乳がんのリスクは高い」という俗説を信じて、人ごとだと思い込んでいたので、これもまた意外でした。
健康管理意識の低かった私が、幸いにも早期発見に至ったのは、本当に偶然のようなものです。軽い脳梗塞をわずらったことで、たまたま乳がんを発見できたのです。
治療はどうだった?
手術、放射線、ホルモン療法を経験
手術、放射線治療、ホルモン療法を続けて、まもなく当初の治療計画を終了します。この5年は、治療の5年であると同時に、がんについて学ぶ5年でした。
私は、叔母を乳がんで亡くしています。といっても、40年も前のこと。いまや乳がん治療は、検査、治療、再建など、あらゆる技術の面で進歩しています。さまざまながんの中で、比較的予後の良いがんとも言われています。
どの部位にできた、どのステージのどんな性質のがんなのか、また、患者の体力や体質、持病の有無などによって、治療の仕方は変わってくる――。そうした、がんの多様性は、自分が発症して、初めて学んだことでした。
私が受けたのは乳房温存術でしたので、再建はしていません。乳房の形は少々ゆがみましたが、気になるほどではありません。乳房を見るたびに、早期発見で助かったありがたさをしみじみ感じます。
そのあとの放射線治療では、左右に30回ずつ合計60回照射しました。毎日通って、少しずつ放射線を当てていくのです。乳房の奥には心臓や肺などの重要な臓器があるため、胸には照射位置の目安になる碁盤の目の線がマジックで描かれ、位置決めは念入りに行われます。
放射線焼けで、皮膚が薄い乳輪からはじくじくと血が滲(にじ)み、すべて終わる頃には、胸全体が赤黒くなりました。今はすっかりきれいですが、汗腺は機能しなくなりました。体中から汗が噴き出すような時でも、胸だけはサラサラで、その度に治療のことを思い出します。
そして、ホルモン療法です。私のがんは、ホルモン療法が有効なタイプでした。一日1回、薬を飲むだけですが、5年間続けます。薬の副作用も、ひとそれぞれ。イライラやめまいがあったり、太りやすくなったり、ほてりに悩まされたり、よく眠れなくなったりする人もいるそうです。私は、多少ほてりなどは感じましたが、年齢的には更年期です。似たような症状の人は大勢いるのだろう、と考えるようにしました。
ガンでも就労できる
2人に1人、がんになる時代…治療中でも就労できるように…
病院に通った5年間で、がんを取り巻く環境が変わってきたのを感じます。
初めの頃は、患者会やウイッグ講習会のポスターなどがよく目に付きました。
しばらくすると、「がんになっても、あわてて仕事をやめないで」というチラシが置かれるようになりました。通院で抗がん剤治療を受けられる態勢が増えてきたからです
最近は、ハローワークのポスターを目にするようになりました。治療中でも就労できるような情報や助言を受けられる体制作りが進められているからだそうです。
2人に1人ががんになるという時代ですが、実際の患者さんは、様々な状況に置かれます。治療に専念した方がよい人もいれば、日常生活と折り合いをつけながら治療できる人もいます。
どんなに健康に気遣っても、がんになる時には、なってしまいます。それが自分でなくても、大切な家族や仲間であれば、「がんとの闘い」や「がんとの共生」と無縁ではいられません。
健康という「日常」とがん治療という「非日常」に、切り分けられる時代は終わりました。これからは、「がん治療も日常の一角にある」として、患者が社会から切り離されることのないように、「お互いさま」で支え合っていけるような社会環境やシステムが、どんどん整ってくれるといいなあ、と願うのです。
まとめ
治って本当に良かったと思います。
二人に一人もの人がガンになる原因を研究して欲しいと思いました。
麻木さんのような、ある程度お金のある方は、5年かけて治療ができたわけですが、普通の人はもっと大変だと思う。