仙台七夕まつりの歴史・由来・起源を調べてみた!江戸時代から続いている祭である!

毎年8月6~8日の3日間で開催される「仙台七夕まつり」は非常に古い歴史があります。

江戸風の七夕を取り入れて始められた仙台七夕まつりは、「たなばたさん」と言っていました。

仙台藩祖伊達政宗は多くの和歌を詠んでおり、その中に七夕にに関するものも含まれています。

伊達政宗が生きていたのは、永禄10年8月3日(1567年9月5日)~ 江戸寛永13年5月24日(1636年6月27日)なので、この当時から七夕の行事があったことが伺えます。

現在七夕まつりは全国で開催されていますが、仙台の七夕まつりが一番古くから続いているのかもしれません。

 

和歌に出てくる七夕祭


和歌には、七夕まつりに関するものが詠まれています。

この当時から、七夕祭があったことが分かります。

元和4年(1618)
「まれにあふ こよひはいかに七夕の そらさへはるる あまの川かせ」
「七夕は としに一たひ あふときく さりてかへらぬ 人のゆくすえ」

寛永4年(1627)
「七夕の 一夜の契り 浅からす とりかねしらす 暁の空」

寛永6年(1629)
「幾とせか 心かはらて 七夕の 逢夜いかなる 契なるらん」
「七夕の 逢夜なからも 暁の 別はいかに 初秋の空」

年不詳
「あひみんと 待こしけふの 夕たちに 天の川せや せきとなるらし」
「雲きりは たちへたつとも 久かたの あまの川せに せきはあらしな」
「なけきこし 人のわかれに くらふれは ほしのちきりそ うらやまれぬる」 

仙台七夕まつりの由来と起源


仙台七夕まつりの由来、起源は、田んぼの神様、中国から来た伝説、棚機(たなばた)という神事などが合わさって生まれたものです。

田んぼの神様

夏場の冷害から守り、豊作を田んぼの神様に願ったことから七夕という習慣が生まれました。

その際、竹や笹を飾って田んぼの神様を迎い入れるという行事が習慣になっていったのです。

棚機(たなばた)という神事

七夕は「棚機(たなばた)」という神事を起源としています。

この「棚機(たなばた)」は「乙女が着物を織って棚にそなえ、神様を迎えて秋の豊作を祈ったり、人々のけがれをはらう」という意味の神事でした。

そしてこの乙女のことを「棚機女(たなばたつめ)」、着物を織る織り機を「棚機(たなばた)」と呼んでいました。

やがて、この行事は7月7日の夜にお盆を迎える準備として、行われるようになりました。

この「棚機(たなばた)」をとり、7月7日を「たなばた」と読む様になったのです。

おりひめとひこぼしの伝説

七夕は中国から来た伝説にもあやかっています。

おりひめ、ひこぼしという2つの星は次の意味があると考えられていました。

・おりひめ(琴座のベガと呼ばれる「織女(しゅくじょ)星」→縫製の仕事
・ひこぼし(鷲座のアルタイルと呼ばれる「牽牛(けんぎゅう)星」→の農業の仕事を司る星

この2つの星は1年の中で7月7日に天の川を挟んで最も光り輝くことから、この日を巡り合いの日と考えられていました。

さらに拡大する

7月7日を織女星に関連させて、織機や縫製が上達するようにお祈りする風習が生まれます。

その風習が拡大されていき、芸事・書道の上達を願うようになり、さらに色々な願いごとをして叶えるという風習が広がっていったのです。

仙台藩祖の伊達政宗が始めた

田んぼの神様、棚機という神事、おりひめとひこぼしの伝説、織女星の解釈の拡大などの要素が絡み合って日本の七夕祭が生まれて、継承されてきたのです。

江戸時代初期、仙台藩祖の伊達政宗には婦女の文化・知識のを高めたいという思いがありました。

それを意図し、七夕をを開催することを推し進め、当時は江戸で年中行事たったものを模倣して開催し始めたそうです。

それは、だんだんに盛んになり年中行事の1つになったとつたえられています。

 

七夕飾りは7つ飾り


仙台七夕では「7つ飾り」と呼ばれる、7種類のアイテムで飾りが構成されています。

そして、その一つ一つには意味があります。

七つ飾り

・短冊-学問や書の上達の願い。
・紙衣-病や災いの身代わり、または、裁縫の上達の願い。
・折鶴-長寿の願い。
・巾着-富貴と貯蓄、商売繁盛の願い。
・投網-豊漁を願い。
・くずかご-飾り付けを作るとき出た裁ち屑・紙屑を入れる。清潔と倹約の願い。
・吹き流し-織姫の織り糸を象徴。

仙台七夕の飾りは、織女星に絡めて他の願いごとも盛り込んで行われているのが分かります。

 

七夕飾りの特徴


仙台七夕の七夕飾りの多くは「7つ飾り」のうちの一つである「吹き流しが」メインパーツの一つでになっており、他の6種類の飾りも色々なところに施されています。

多くの場合上にくす玉がありその下に吹き流しがつきます。

もう一つの特徴として、飾りが高級和紙で作られており他の七夕のように樹脂製のものはほとんどありません。

雨に弱い和紙ですが、アーケード街を中心に飾られるという条件によって継承されてきた素材選びだと言えるでしょう。

遠目ではわかりませんが、近くで触ったりしながらよく見ると、高級和紙の独特の表現力が伝わってきます。

仙台七夕には「からくり七夕」というものがあります。

アーケード街に上方部分に、小型舞台が設置され、そこで数体の糸操り人形が動くというもので、一定の動産が繰り返されます。
その人形が巨大なものが多く、始めて見る人は結構びっくりします。

これも他の七夕飾りにはないものです。

平和への思い


仙台七夕まつりの初日は8月6日になりますが、この日は原爆の日です。
そのため、「平和七夕」の意味も込められ、「七つ飾り」の一つにもある折り鶴が全国から寄せられ、それを吹き流しに飾ります。

仙台七夕は平和への願いも込められています。

 

仙台七夕まつりの開催日


現代の仙台七夕まつりは8月6~8日での開催になっていますが、七夕まつりの本来の開催は旧暦の7月7日で仙台もそれに倣って開催していました。

このことは、伊達13代藩主伊達慶邦公の随筆「やくたい草」 (明治6年(1873)『楽山公御遺稿』4巻)に書かれている内容によって分かります。

「仙台にては六日の晩にこのまつりをして、七日の暁には評定橋等より笹を流す風習也。 この事をたつぬれは徹山公の御時より御さハりありて、七日節句のおいわひなし。 依てはばかりて六日に二星をまつるとそ、遠きむかしとなりぬれは、今の世にははかる事にもあらねとも、其の仕形とおもはる。 さて七夕に多く女共の手向るうた、よみ人はしらねとも 七夕に 願の糸を 引かけて こよひそいのる 星合の空」
※ 文中の「御さハり」とは…重村の子・りゅう姫8歳が宝暦12年(1762)に亡くなったことと推察される。

更には、文政3年(1820)の『参詣記』に書かれている内容でも、分かります。

「七月七日朝 御評定橋七夕まつりへ詣てたりし、昨六日夜者人こと打交りて、翌あくル朝早く起き出て、 詣でてはべりなんとて、とりとりにいい物して臥候ふしそうろう、 今朝ハ昨夜の言の葉にたがは(わ)ず、疾とク起キて参る、(以下略)」

6日の夜から笹竹を飾り、翌朝早く起きて祭に詣っているという記載があります。

仙台の七夕まつりは元々は旧暦の7月7日に行われていたのは事実のようです。
 

七夕まつりの衰微


仙台の七夕まつりは、6日の夜から姫星と彦星を思い笹竹を飾り、そこには手習・手芸の上達への願いが込められていました。

まつりに際し線香をともす習慣もあり、農家などでは藁で七夕馬をつくって屋根に上げるなどをして、豊作を祖霊に祈りました。

馬は田んぼの神様だったのです。

仙台の七夕まつりは、盆祭にはいる準備の意味もありました。
笹のついた竹の、小枝を落とし翌朝広瀬川に笹だけを流して水を浴び洗い物をしました。

この意味は、七日浴(なぬかび)と呼んだり、7日盆と呼んだりして「みそぎ」をして盆祭の準備を始める日になっていました。

そして、残った竹は物干し竿として、実用的に利用されました。

そんな七夕まつりですが、新暦が採用され維新の改革の波のなかで、全国的に廃れていきました。

仙台の七夕まつりはやってはいましたが、その規模は幕末に入ると極めて細々としたものになりました。
 

新しくなった七夕まつりの


幕末の渦中のなか、七夕祭そのものが衰微した状態を体験しながら、昭和2年に仙台商人たちが不景気を吹き飛ばそうと華やかな七夕まつりを復活させました。

小規模なものになっていた七夕まつりが、一気に息を吹き返したのです。

町内に華やかな七夕飾りが飾られたのを見た人達が喜びで、どんどん人が集まるようになりました。

その翌年の昭和3年には、元来旧暦の行事だったものを新暦の日付に変更して、中壢の8月6、7、8日の3日間に渡り、東北産業博覧会の行事として採用され、仙台商工会議所、仙台協賛会との共同開催という形で「飾り付けコンクール」が催されました。
※中歴とは新暦に一ヶ月足した暦で、これを月遅れの行事と呼びます。

参加した商店は、東一番町、名掛丁、新伝馬町、大町通り、国分町、立町通りなどの11町会に及び、8月6日にの夕方から飾り付けを開始し、3日2夜の七夕祭が復活したのです。

このときから、笹飾りはもとより仕掛け飾リ、電飾と様々な趣向を凝らした、手のこんだ七夕飾りが飾られ街中がお祭りムードでいっぱいになりました。

昭和3年の8月7日、仙台の七夕まつりは華々しく復活を遂げたのです。

そして、ときを経て第二次世界大戦へと突入していくなか、また仙台の町から七夕祭は消えました。

戦渦まっただなかで、七夕まつりなくなるのは、しかたがないといえます。

 

終戦後の七夕まつりの


終戦の翌年(昭和21年)には、焼け焦げた一番町通りには52本の竹飾りが立てられたそうです。

戦後の荒廃期に52本と言えども、竹飾りが飾られるとは凄いですね。

その翌年には昭和天皇が巡幸され、巡幸沿道には5,000本もの竹飾りでアーチをつくり、昭和天皇をお迎えしたそうです。

戦後2年しかたっていない、まだまだ経済が復興していないときに、作られた5,000本もの竹飾りは、きっと最高に輝いていたのだと思います。

 

七夕まつりに観光化


戦後復興した仙台七夕祭は、だんだと観光化していきます。

伊達政宗時代から受け継がれている、風習をのこしつつ、商店街の振興という枠を越えて県外の多くの方にも来て頂き、楽しんでもらうような方向に舵が取られました。

ステージイベント、お祭り広場でのパフォーマンス、七夕飾り制作体験、前日に行われる花火大会など毎年の一大観光イベントにもなっています。

まとめ


仙台の七夕まつりは、地元商店街の色々な思いと、ビジネス的利益が絡み合って非常に華やかで、豪華なお祭りになっています。

毎年200万人を超える来場者があり、外国人の方も多く観光に来るイベントになっています。

私キアラは仙台に住んでいたことがあるので、七夕祭はすっと続いてほしいと思います。

おすすめの記事