毎年ひな祭りの前になると、飾っている雛人形。
女の子の幸せと健康、健やかに成長してもらうことを願って飾っているけど、本当の意味や由来について分かっているかたは、以外に少ないかもしれません。
ここに来てくださったあなたも、きっと雛人形についてその意味をもっと知りたくて来られたのではないかと思います。
雛人形が生まれた時代は非常に古く、平安時代だと言われていますが、その原型になる風習はもっと古くからあります。
このコラムでは、雛人形についての意味・歴史・由来やそれにまつわる話をご紹介致します。
目次
雛人形を飾る意味
雛人形を飾るひな祭りの起源は、西暦300年頃の中国で行われていた、「上巳(じょうし)の節句」だと言われています。
季節の変わり目にあたる上巳の節句には、人々に災いをもたらす邪気が入りやすいと考えられていたため、水辺で穢れを払う習慣がありました。
今ではひな祭りというと、女の子の行事として行われるものになっていますが、この上巳の節句は春の到来を祝い、無病息災を願いながら、厄払いをするものでした。
そこには男女も年齢もなく全ての人が対象になるものでしたが、やがて女の子のための行事へと変わっていきました。
また、雛人形は、平安時代の宮中の婚礼の様子を模したものであり、これを飾る意味は次のようなものがあります。
- 女の子に宿る邪気・厄を引き受ける
- 1年間の無病息災、健康、恵みを願う
- 将来の幸せな結婚を願う
- 健やかに成長することを願う
雛人形は、人形信仰、身代わり信仰から生まれたものなので、雛人形が女の子に代わって悪いエネルギーを引き受けてくれることで、魔除け、邪気・厄を払ってもらう効果があると考えられています。
健康と幸せを願い、将来的には幸せな結婚をしてほしいという願いも込められます。
昔は女性にとって「結婚=幸せ」という考えかたがあったので、今以上に早く幸せな結婚をして欲しいという思いが強かったのでしょう。
それぞれの雛人形の意味
雛人形は平安時代の宮中の婚礼の様子を模したものであることは既に述べましたが、雛飾りに登場するそれぞれのキャラクターやアイテムの意味をここでご紹介致します。
雛人形の基本は七段飾りになります。
一段目「内裏雛」
一段目には「内裏雛(だいりびな)」「三方」「ぼんぼり」を飾ります。
内裏雛とは「男雛」「女雛」のことで、天皇と皇后を形どった男女一対の人形になります。
男雛(おびな)装備
- 冠(かんむり)をかぶる
- 笏(しゃく)を手に持つ
- 太刀(たち)左腰にさす
女雛(めびな)の装備
- 袴(はかま)に単(ひとえ)
- 唐衣裳(からぎぬも)
- 手には桧扇(ひおうぎ)を持つ
内裏雛の両サイドにはぼんぼり(提灯)を飾りますが、平安時代は夜に婚礼が行われていたことが窺えます。
男雛と女雛の間には三宝(さんぽう)という木で出来た台を飾り、その上には瓶子(へいし→とっくり)がのせられ、その間に水引で飾られた熨斗(のし)が差されています。
三宝は江戸時代には飾られていた記録はなく、明治~大正時代に置かれるようになったと考えられます。
由来は分かりませんが、神事で用いられる道具が何らかの形で、桃の節句と融合したのでしょう。
二段目「三人官女」
二段目は、三人官女(さんにんかんじょ)が飾られます。
三人官女は内裏様のお世話をするためにつかえる侍女で、お姫様が聡明で優れた大人になるようにサポートしてくれる役割を担う女性達です。
召使いというポジションではなく、生活の全てを管理しながら、お作法から、政治のことまでをお姫様に教える能力の高い人達です。
三人官女の一人は、眉がなくお歯黒にしている女性がいます。
これは、江戸時代の既婚の女性特有の化粧方法で、彼女か一番の年長者です。
そして、左右の二人が持つお銚子(ちょうし)は結婚式の三三九度で今でも使われています。
三段目「五人囃子(ごにんばやし)」
三段目は、五人囃子(ごにんばやし)が飾られます。
「囃子(はやし)」とは、「引き立てる」「囃し立てる」といった意味があり、日本の伝統文化である「能(のう)」の一種です。
宮中の中で選りすぐりの優れた演奏家が集って楽器・謡(うたい)などの素晴らしい音色を奏で婚礼の宴を盛り上げる役割を果たします。
四段目「随臣(ずいじん、ずいしん)」
四段目には、随臣(ずいじん、ずいしん)が飾られます。
随身とは、天皇皇后のお付きの者で要人警護官のような存在で、主に外出するときに、天皇をお守りする役目を担う人達です。
今でいうと要人警護をしているSPみたいな存在です。
位は近衛中将あたりになり、かなり高い位の人です。
随身は別名、左大臣・右大臣と呼ばれ向かって右側の左大臣の方が年長者で位が高い人になります。
しかし、大臣クラスの人間が警護の仕事をするわけがないので、実際は大臣ではなく警備の武官だったと思われます。
五段目「仕丁(じちょう)」
五段目には「仕丁(じちょう)」が飾られます。
仕丁とは庭掃除など雑用をする係りとして御所で働く人達のことです。
人形の顔をよく見ると、怒ったり、泣いたり、笑ったりしています。
この三人は上戸(じょうご)とも言われ、飾る位置と装備は次になります。
名称 | 位置 | 装備 |
泣き上戸 | 真ん中 | 沓台(靴おき) |
笑い上戸 | 向かって右側 | 雨傘 |
怒り上戸 | 向かって左側 | 台傘(日傘のこと) |
この仕丁というのは、平安時代に地方から無報酬でくらいの高い人の雑務に就いた人達のことを指します。
仕丁は無報酬な上に食費も故郷の負担となることから、本人たちにとっては何の利もなく働かせられ、宮中では一番身分が低い存在でした。
このことから、様々な窮状を、怒ったり泣いたり笑ったりすることで表現されています。
このように、雛人形の表情が豊かなのは、表情が豊かな子供に育ちますようにとの願いが込められているからだそうです。
六・七段目お道具
六・七段目には人ではなくお道具が飾られます。
平安時代の貴族の女性達の、婚礼の持ち物が表現されています。
具体的には次のものがあります。
- 箪笥(たんす)
- 鏡台(きょうだい)
- 長持(ながもち)
- 針箱(はりばこ)
- 鋏箱(はさみばこ)
- 火鉢(ひばち)
- 御駕籠(おかご)
- 茶道具(ちゃどうぐ)
- 御所車(ごしょぐるま)
- 重箱(じゅうばこ)
これらのお道具は、長きに渡って使われるものであり、結婚という行事への思い入れが大きく、そこに一生の幸せへの願いと祈り込められているのでしょう。
縄文~弥生~古墳時代にあった人形
ここからは、時代ごとの雛人形の歴史を追っていきます。
縄文時代には農産物の豊穣を願い「土偶(どぐう)」を地母神として崇めていたと言われています。
弥生時代には、「天児(あまがつ)」「這子(ほうこ)」という藁に布をかぶせた、身代わり人形が登場します。
古墳時代には、「埴輪(はにわ)」が登場しそれは、人間たちの身代わりとしての存在になります。
この時代はまだ今の雛人形の形態とは、かけ離れてはいますが、身代わり信仰が芽生え、そこには人の形をしたものを作って、邪気払いをする風習が生まれていたということが分かります。
その意味では、今の雛人形の原型が既に在ったと言えるかもしれません。
そこから色々な文化や時代の流行りの影響を受けながら、変化し続けるわけです。
奈良時代に生まれた人形(ひとかた)
奈良時代になると、紙や藁で人形(ひとかた)をつくり、穢れ・邪気を払う儀式が行われるようになります。
今でも日本国内では、穢れを払う儀式として、紙で作った人形に自分の名前を書き入れ、その人形に自分に積もった穢れや邪気を転移させてから、それを神社でお炊き上げをする文化が残っています。
医療技術が発達した今とは違って、昔は生まれてから大きくなるまでに死んでしまう子供が非常に多かったという事情から生まれた風習です。
抵抗力が弱い小さな子供時代に、穢れや邪気を人形経由でお祓いし無病息災を願う行事を行う、身代わり信仰の習慣が生まれたのです。
七五三なども、このような事情から生まれた風習です。
平安時代に生まれた「雛(ひいな)遊び」と「流し雛」
平安時代に入ると、平安貴族の女の子達の間で流行った遊びが「雛遊び(ひいなあそび)」というものです。
これは紙で作った人形を同じ紙で作った御殿の中で遊ばせ、それらの人形は全て男女対にしていました。
男女が対なのは、宮中での生活を真似る意味があった「雛遊び」なので、夫婦が常に一緒に行動していた宮中の風景を模していたのかもしれません。
雛には、「大きなものをちいさくする」「かわいらしいもの」という意味があますので、宮中の様子を小さく可愛らしくして表現し遊ぶことから「雛遊び」と呼ばれるようになったようです。
宮中の男子と女子が対になっているので、現代の雛人形の形により近づいたと言えます。
さらに、この時代には紙でつくった人形を川に流す「流し雛(ながしびな)」の風習も現れており、「上巳の節句(じょうしのせっく)」には穢れ払い・災厄よけする際の「守り雛」として祀られるようになっています。
尚、上巳の節句とは桃の節句とも呼び、今のひな祭りの日を指します。
宮中の結婚式を模したお人形
「穢れ・厄を払う」「守り雛」「雛遊び」「上巳の節句」「流し雛」のそれぞれの風習や遊びが、人形という形態を通じて合体していきます。
これらの要素にもう一つ加わったものが、宮中の結婚式の様子です。
宮中の様子を模した「雛遊び」は、男女対の人形が使われていましたが、それが更に結婚式の様子へと発展したのです。
雛人形の基本とされる七段雛飾りには、宮中での結婚式の様子が表現されています。
貴族の間で習慣になっていたものがやがて庶民へと広がっていきますが、その段階でも宮中での結婚式を模している形態はそのまま引き継がれました。
これは、天皇と皇后が幸せそうに並んでいる姿に多くの人間が憧れたからなのかもしれません。
そして、当時の親達の頭にあったのは、娘の健康と幸せな結婚への願いだったのでしょう。
それが、人形信仰という形を通して、広がりをみせたと言えます。
江戸時代に今の原型ができる
江戸時代に入ると、結婚を模したかたちが明確になってきます。
男雛と女雛を一対にした内裏雛を飾る「立ち雛飾り」が作られるようになりました。
この立ち雛が座り雛に変わっていきながら、人形作りが段々と手が込んだものなっていき、がめ十二単の装束をまとった「元禄雛」や、大型の「享保雛」などが作られるようになります。
江戸時代の後半になると、更に人形が精巧で手の込んだ手芸品へと進化していきます。
宮中の雅な装束を精巧に再現したものが作られるようになっていき、今の雛人形の形に近い古今雛(こきんびな)が登場しました。
今までは宮廷、武家の間だけで行われていたひな祭りは、1700年ごろから一般庶民の間へと広がっていきます。
- 1790年頃 五人囃子の登場
- 1860年頃(幕末) 三人官女、随身、仕丁などの添え人形、嫁入り道具が登場
この頃に、今の七段飾りの原型がほぼ出来上がったと言えます。
終わりに
雛人形の歴史・由来・意味を調べていくと本当に色々な風習、縁起、信仰、文化が複雑に織りなしながら今の形が生成されていった様子をうかがい知ることができます。
その中には日本人の美意識の高さと、色々な要素をどんどん融合させてしまう程よいいい加減さと、素晴らしい柔軟性が見えてきます。
本格的な雛人形は、いい値段しますが、宮中行事から生まれている人形なので、やはり素材も高級で、作り込みも専門の職人の手にかかるために、高くなるのでしょう。